夏さ、また。

日々のことを、だらだら書いてるだけです。

天窓(私にとってのブログ、書く理由)

 

  私がはてなブログを書くようになって、5年が経過した。基本的には毎月1つは書くようにしているが、転職して上京した2023年からは少しずつ投稿ペースが早くなってるように思える。

 

  私がブログを書くようになった大きな理由は、大学四年生の時の就活時代にある。あの頃から公務員として働いていた鬱屈とした合計4年間。私ははてなブログに大いに助けられた。

 

   理由は2つある。1つは、誰にも弱さを話せなかったこと。2つ目は、日々の記録としての側面だ。

 

  大学四年生だった私は悩んでいた。地元東北を出て、たった1人で北陸の大学に進学していた私は、憧れだった東京での就職を志望していた。毎週夜行バスに乗って新宿に行くも、就活生に有利な時代と言われているにも関わらず一次面接で落ちる日々。周りの友人たちは、地元北陸での就職をそうそうに決め、悠々自適な最上級生ライフを過ごしていた。高校の同級生は専門学校卒が多くて、もう働いている。私だけが、6月をすぎても就活を続けていた。

 

  プライドだけはあった。ほんのちょっとだが、地元の同級生よりも受験勉強を頑張って進学した自負があった。双子の兄は高校時代からニートで頼りにならないから、家を背負う覚悟があった。お金を稼がねばならないが、就活はうまくいかない。

 

  学生時代、ずっと明るくひょうきんなキャラクターを貫き通していたので、今頃人生が辛いという相談ができなかった。友人たちといる時は、明るい時間を提供しないといけないという強迫観念があった。私がみんなに求められているキャラと、就活の悩みはミスマッチだったし、周りにこんな負け犬はいなかったのだ。人に相談して馬鹿にされたら、心がはち切れそうだった。

 

  そんな中、ツイッターの就活生がやっているアカウントの界隈があることを知った。それが、今もあるツイッターの就活垢の名残りと、有機栽培というアカウントだ。有機栽培は、地元の駅のカフェに入った時に卓上にあった、ガムシロに書かれていた言葉である。

 

  親友との時間を、ぽっとでの顔も知らない男が彼氏という席を埋めるから、友人の彼氏が嫌いということも書いた。就活で幾度となく性格診断でラベリングされるほど単純な生き方をしてないと書いた。幸せそうに街を歩き、自分たちが幸せのてっぺんいると自負して、周りの人間を踏みにじるカップルの無敵感。初めて内定が出た静岡への旅。

 

  そんな、身の回りの人には口が裂けてでも言えない主張を、私ははてなブログに書いていた。この理由は、就活から1年がたった時に書いた、「8月に内定が出た女の話」というシリーズが集大成になったと思う。今でも就活シーズンになると現役の就活生からコメントを頂くことがある。 何年経っても就活で苦しむ人はいるという現実と、失敗した人のブログが少しでも心の支えになってくれたらと願っている。

 

  また、公務員になってから苦しいことが増えた。友人にも家族にも話すことが出来ず、帰りの車や誰もいない部屋の中で声を押し殺して泣き続けることしかできなかった時代だ。「公務員だから人生安泰だね?」「親孝行だね?」そんな言葉に押しつぶされて、私は良い環境にいるはずなのに、どうしてこんなに不幸を感じて生きているのかが分からなくて、でも相談しても上記の言葉しか返ってこないと諦めて塞ぎ込んだ。

 

  どこにも吐き出せない言葉は、はてなブログに生々しく残っている。

 

  それは、自責の念が強く、自分を呪う言葉の羅列だ、私が具合が悪くなるので、あまり読み返さないのだが、確かにその時に私が感じていた苦々しい絶望感が生きた言葉で書かれている。逃げ場かここにしかなかった。ここにしか訴えられなかった。

 

  今となったら、早く逃げればいいのにと思うのだが、若いなりの責任感を果たそうとした私の足掻きが残っている。嫌な思い出だし、振り返りたくない。でも、その頃の私か確かに日々を踏みしめて生きていた証拠かそこにある。誰にもいえなかった心の本音が地層になって、このブログに日記として残っている。

 

  私のような就活や公務員になった時の悩みが、いつか誰かネットの波を漂流してきた人に届けばいい、少しでも独りじゃないと感じて欲しい。その思いで、私は嫌なことも隠したいことも逃げ出したいことも、このブログに書いている。

 

  そして、当時八方塞がりで消えてしまいたいと思っていた私の逃げ道だった。閉ざされた田舎の閉鎖的な人生を予感させる日々の中で、私というキャラクターを無視して、はてなブログだけが天に穴を開けてくれたのだった、逃げることは出来ないが、叫ぶことは出来る。現実はどうにもならないが、主張だけはラジオのように世界中に届く。あとは、見つけてもらうだけ。

 

  この狭くて暗い世界で、唯一新鮮な空気が届く天窓。それがブログだったと思う。

 

  2つ目は、日々の記録としての側面である。就活と辛かった公務員時代の間に、私の記憶力は地に落ちた。いや、中学生の頃、不登校になった時から、「一日は午前中にいいことがあると、午後には必ず不幸がある」と信じてやまなかった。友人が話しかけてくれたら、午後には急な面談が入って教員に詰められる。学校から脱走すれば少しだけ平和な時間を過ごせるが、すごい剣幕で親に怒られる。

 

  いいことがあれば悪い事が必ずある。最近ラジオでこのことを「禍福はあざなえる縄の如し」ということを聞いたが、このもっとネガティブバージョンが、人生の教えだった。どうせ嫌なことは起きる。救いはない。死ぬまでずっと、不条理な不幸は続く。油断しては行けない。

 

  そんな生活をずっと続けていると、悪い作用が起きた。記憶力が無くなったのだ。ただでさえ、たまに自分のことが分からなくなるので、記憶など些細なことなのかもしれない。

 

  まずは、私に当てはめられた固有名詞がしっくり来なくなり、私が今いる部屋、天井が分からなくなる。ひとつずつ、自分の名前、年齢、今いる場所、職業をひとつずつ教え込むように口に出し、気づいてしまった他人のような違和感を消し去る作業が必要になる。我に返るならぬ、他人に返るような感覚に襲われる頻度が増えた。

 

  その延長戦で、昨日食べたことを忘れた。この前友人と遊んだことも忘れた。嫌な仕事の内容も忘れた。仕事中に必要な、パソコンの操作方法や、起案文書の作り方は覚えているので日常生活に支障はなかったが。ただ、感情が付随する物事を忘れてしまうようになった。

 

  その時、ブログは大いに役になった。旅行に行った事実は、写真で思い返すことが出来る。でも感情を文字化して残せるのは、ブログだけだった。

 

  小さな日々のことから、大きなことまで安心して忘れることが出来た。友人と飲みに行ったこと、大学時代の恩師に会いに行ったこと、亡くなった実家の犬との思い出、美味しいラーメン、大好きやアイドルへの思い、人生初のファンサービスを受けた瞬間、最後の家族旅行。今もブログの中で生き生きと当事者だった時代と違わない瑞々しい記憶が、そのページを開けば残っている。私の大切な、22歳から26歳の代えられない感性が残っているのだ。

 

  特に、残していてよかったなと思うことがある。それは、人生で初めて彼氏が出来たことを当時の無敵感で書き残したことだ。

 

  あの頃のことは今でも思い出せる。それも、このブログの記事を、たまに自分で読み返していたからだと思う。

 

  22歳新卒一年目の私は仕事が辛くて、どうせ死んじゃいたいと思うぐらいなら、一生ありえないと思っていた恋人を作ってからでも遅くないと思ったのだ。作ってからという言葉は傲慢だな。両思い、いや告白すら出来れば良かったのだ。

 

  人間という種族の寿命の中での大きな転換期となりえるもの、しいては生きる理由になる人もいるし、楽しいと語られることが多い出来事。もしかしたら石器時代より前から人間に生まれたなら、多くの人に発生していただろうイベントを、私も体験してみたかったのだ。

 

  だって、本を読んだら恋愛をしている。ドラマでも恋愛をしている。肉を美味しいと思える人口分布ぐらい、人は恋愛をしている。マジョリティが感じるその特殊状態を私も味わってみたかった。チャレンジして違うと思えても、それは私の今後の指針になるかと思ったからだ。やってみないと、分からない。私の心の中に、昔朝ドラで見た俳優の言葉が聞こえる、やってみなはれと。

 

  慣れないマッチングアプリ、自分の写真から一番いい写りのものを探す作業、顔も知らない異性とのメッセージのやり取り、性別上女であると改めて感じる切なさと現実。色んな感情が初めてで、色んなことが風のように去った。そして、初めてのデートと会話。

 

  そのことを、今の私が恥ずかしいと思うぐらい、細部まで機微に残している。あの時の悩み、動揺、嬉しさ。それらの全てが新しい。あの時しか味わえなかったことばかりだ。だから、私は感謝する。羞恥よりも、感謝が勝る。

 

  あの短い文章を読むと、今でも色んなことが思い出される。初めて男の人に告白されて受け入れた後、1ヶ月ぐらい仕事中ふわふわしていた。ずっと人に侮蔑的に扱われる人間だと思ってたし、家族は兄を優先するし。もう誰かの心の中の席に招待されることは無いと思っていたから、嬉しくてふわふわして、誰もいないトイレでガッツポーズしたりしたこともある。楽しいことを考えることで、時間がワープすることを知った。

 

  あの後、私は3年間毎週、彼氏の家に通った。あっちか車を持っていなかっので、文句を垂れながらも、大雪の日でも渋滞の日でも深夜残業の日で到着が1時を超えても金曜日は彼の家に言った。愛である。地震があった日は、彼の家から即座に、深夜に遠くにある職場へ出勤したこともあった。

 

  そして今、私が東京に引っ越して遠距離なった。なんなら、このブログも帰り道の新幹線で書いている。付き合って4年間、色んなことがあったし、腹が立つこともある。泣いたこともある。

 

  それでも、最初に書いたブログを読むと、そんな些細なことはどうでもよくなるのだ。改めて、彼が私に与えてくれた幸せを再確認し、息がしやすくなった日々を反芻する。呪いのような自責の念が、過去と比べて少しだけ解けたことを自覚する。

 

  嫌なことも、いいことも、感情まで残してくれるのはブログだけだ。昨年、亡くなった父の事を書いた。父との思い出も、このままだったら誰にも伝えずに消えていたかもしれない。でも、ブログに残したら誰か思い出してくれるかもしれない。家族が末期ガンで闘病の辛さを感じている人の、少しの慰めになるかもしれない。

 

  今の彼氏と嫌いあって別れることになったとしても、楽しい感情は記録されている。今、私は上京しているせいか、文章も明るいらしい。長時間のサービス残業と閉鎖的な未来への鬱屈とした感情から開放されたが、また何かしら衝突があり病むかもしれない。それでも、過去の私が紡いだ文章は地層となり、それなりの説得力を持ち力になるだろう。

 

  時を経て感情を運んでくれることは文章だ。その文章を読んで、救われるのは私かもしれないし、知らない空の誰かかもしれない。だから可能性を絶やさないように私はブログに書く。暗い世界の中で、どこかに叫びを届けたくてブログを書く。

 

  未来の私への戒めとエールであり、誰かに届くボトルレター。悲しみにも寄り添う感情の手紙。どこにも行けないと嘆く部屋で、無理やりこじ開けた天井に開けた穴。その光に救われることもあるだろうし、その穴に紙飛行機を投げることもあるだう。それが、私にとってのブログだ。

 

 

 

 

特別お題「わたしがブログを書く理由