夏さ、また。

日々のことを、だらだら書いてるだけです。

朗読劇と推し尊い話

推し活という言葉が尊ばれるようになって久しい。私はずっと、推し活というか何かを妄信的に好きになることは宗教みたいなもんだなと考える。「宗教」という単語を使うと過激に思えるが、いえば心の拠り所である。貧困や戦争に荒んだ心を、ここでは無いところに救いを求めて成り立たせる。

 

  紀元前も紀元後もそれは変わらず、たまたま現代では「キリスト教」「仏教」といった、国民の大多数が同じものを信仰する時代から変遷し、自分だけの「アイドル」や「ミュージシャン」や「2次元」を、生活苦やままならない現実からの逃避に用いてるのだと思う。信仰対象が多様化しただけで、心を動かす動悸は数百年前の人間と変わらないんじゃないかな。

 

  だから、推し活はお金を沢山使う人が偉いという風潮もちょっと解せないが、頭のどこかで歴史は繰り返すことに気づいてる。沢山お金を使ったら増える戒名の文字数、町の神社の石には寄進した金額の多い順に名前が並んでいる。豪華絢爛な欧州の教会だって、地元の領主の力添えで建てたりしている。活動を支える人は認知を受ける。檀家とかファンクラブでしょ。トップランカーはそれが自負になる。ウィンウィンの関係性。

 

  そこに、悪意は無いのだ。それでも資本主義の世界に生きている訳で、人間のちょっと汚い自己顕示欲や嫉妬は、清らかな推したちだけを見ていたい私にとって、現実に引き戻すには十分な理由になってしまう。それでも、繰り返す。大切なことは、人それぞれの応援スタイルを貶さず、そういう人もいるよねって気持ちだと思う。みんな同じ人が好きなんだから、仲良くしようよっていいたいけど、そうだったら宗教戦争なんて起きなかったから。難しい世の中だよね。

 

  色んなジャンルが好きになって、解散したり冷めたり、なんなら捕まったり嫌いになったコンテンツもある。お金を沢山使った媒体もあれば、思い出したようにたまに見るものだってある。お金と時間を使ったオタクが賞賛される世界だったら、生ぬるい気持ちで推してんじゃないよって引っ叩かれそうなものも多い。

 

  推し活に色々書いたが、つまり「𓏸𓏸が好き!!」と大声で言いにくい時代になってしまった。SNSが発達して、同じ推しに生活をかけてる人たちを見かけるようになると、まるで私はこの推しに時間もお金もかけていないし、なんならほかのコンテンツも好きだし……と引け目を感じてブログやTwitterに書きづらくなってしまった。

 

  色んなことが可視化され、自分の推すスタイルの生温さを恥じてしまう。人と比べることなんてないの、私がこの人を好きと大声で言ってしまったら、知らない人から笑われそう。グッズだって買ってないし、痛バとかも持っていない。出演作品も追っていない。熱量があるオタクの方が、絶対このコンテンツを支えている。

 

  でもずっと目で追ってたり、思い出したように検索しては好ましく思う。そんな、中途半端な覚悟で長年好きな推しがいる。いや、私が好きになった頃は、まだ「推し活」という言葉もなかった。中学生の頃、同級生を好きになるような思春期のタイミング。好きなラジオのゲストとしてやってきた声を聞き、動画を見て好きになった。ラジオでもイベントでも、進行役をやっていた。声優の安元洋貴さんである。

 

  そこから16年。いや、もっとかもしれない。中高生の頃は、いわゆるリアコと評されるスタンスで、好きな学校の先生と結婚したいと笑う女子高生のような心持ちで、推しか推しのような人と結婚したいとよく行っていた。今思えば好きな男性のタイプが決まったのは、この推しのせいでは無いのだろうか。

 

  恋愛という事象に疎く臆病だった私は、半分推しのことが好きという盾を持ってして、自分が女で生まれたことを肯定したり否定したりと悩んでたり、他者からの恋愛関係の質問を避けることに利用していたと思う。自己肯定感が低い私にとっては、いい人を好きでいることは楽だったのだ。

 

  人を好きになって迷惑をかけたり、噂されたりブスのくせにと罵られるよりは、手の届かない人を好きといい、周りからの興味の視線を他の人に移したかったのだと思う。

 

  そんな思春期特有の理由があったとしても、ふつうに大好きだったのは変わりない。 推しの演じているキャラが最推しになることはあまり無かったのだが、推しの出てるアニメは好きだった。ヘタリアが好きだった私は、必死に受験勉強を乗り切った。鬼灯の冷徹は友達が漫画を持っていて、アニメ化した時ハイタッチで喜んだ。黒執事のイベントの動画が好きだった。

 

  大学生になって、一人暮らしの家事の時間に推しがやっていた天才軍師というラジオを聞くようになった。自転車で5km離れたTSUTAYAレンタルCDに、シュチュエーションボイスのCDがあると聞きつけて、友人たちと深夜に自転車を漕いで借りに行ったことをいまでも覚えている。

 

  人生初のイベントは天才軍師のイベントで、当時パーソナリティのお2人が好きな女性の服装と言っていたニットワンピを友人の付き添いの元購入し、夜行バスで上京したのを覚えている。

 

  どれも今でも親交がある友人たちとの大切な思い出で、覚えたての酒を買い漁っては、狭い下宿先の部屋に集まってみんなで推しについて語らっていた。それがそのまま、「楽しかった学生時代」の象徴になり、今でもあの頃に戻りたいと思ってしまう。

 

  社会人になって、激務で精神と体調に異常をきたしていた頃。友人にも連絡は取れないし、アニメも漫画も殆ど摂取できなくなっていた。通勤の間に聞く天才軍師が心の支えになっていた。サブスクで見たユーリ!!! on ICEとACCAしか見ていたアニメも思い出せないが、どちらにも出演されていた。昔より必死に追うことはできなくなったが、ずっと声は聞いていたのだと思う。

 

  その後人生色々あって、私は仕事をやめて上京した。この頃、同時期に上京した高校の同級生からオタク仲間を紹介された。その友人たちはそれぞれ推しの下の名前をあだ名にして呼びあっているのだが、「ひろきは恐れ多い」「ゆういちも恐れ多い」(私は中村悠一さんも好きだ)という結論に至り、そのくだりが面白かったのでたまにご飯を食べるのにお邪魔させて貰っていた。

 

  その友達から、好きな声優さんのファンクラブ先行でチケットが取れたから、一緒に朗読劇に行こうと連絡があった。朗読劇自体も初めてだし、声優さんの現場は6年ぶりなんじゃないかな。オリジナル作品の朗読劇で、脚本が去年単独ライブに行ったさらば青春の光という芸人コンビの森田さんだった。速攻、OKと返信した。

 

 

 

  f:id:muriyada444:20240320094028j:image

 

  コメディ朗読劇CONTELLING「親の奢りで」という作品だった。上京してから、初めての推し活で現場。当日は都内なら30分ぐらいで着くと思ってたら以外にも遠くて、大手町の地下街で迷子になったりでてんやわんや、開演ギリギリに到着した。事前に友人からチケットを分配してもらっててよかった。

 

  季節外れの暑さで汗が滲む中、着席すると前の方。チケットをくれた友人からLINEが来る。「安元さんは下手側だよ」「目の前の席に座るよ」神席じゃないか。

 

  こういう時、アイドルの現場でもよくあるのだが凄くいい席の時に限って準備をしてなかったり、色々と足りないことが多い。昔は東京で何かを見るためだけに化粧品や服を購入してたけど、今はそんな気力はない。もっといいファンデーション買えばよかった、とりあえずメガ割でいい感じのヘアオイルが届いてよかった。いや走ったから髪の毛ボサボサだ。とにかくリップだけは塗り直せ。いや、なんか緊張してきたな、友人にLINEを送ろう。

 

  慌ただしく事を済ましていると、客入りで流れていたラデツキー行進曲が大きなっていく。手拍子の音も大きくなる。高校生の頃、部活で弾いたことがある。毎年入学式や卒業式近くに弾いてたから、ちょうどこの春の季節に音楽室で練習したな。ちょっと変則的なリズムになる小節だけ、手拍子が乱れるこの感覚。楽器を弾いてた頃、一番好きだった推しの声を生で聞けるというのは、何の因果か運命か。

 

  普通に楽しめばいいのだし、別に推しにとっては私は有象無象の1人なのだし、その線引きは守らないと面倒くさいやっかいオタクになる。分かる。それでも、推しの声と姿がとめどなく溢れる色んな思い出に付随している。私の一番楽しかった頃、学生時代に寄り添ってくれた概念として。勝手に思慕して、勝手に祈ってる。

 

  幕が上がって、声を聞いた。姿を見た。こんなに近くで見るのは初めてで、ブルーベリーアイ飲めばよかったとか、聴力と記憶力ってどうやって上げればいいんだっけかとか、網膜ってカメラにならないのかなとか後悔の雑念が渦巻くのを押しやって、コントに没頭する。

 

  一瞬を永遠に捉えてしまう。心のシャッターをコマ撮りで何回も押してしまう。全てはスローモーションになって、大切な思い出として色褪せないように頭の中で反芻する。気合いを入れろ、この舞台は私を一生支えてくれるような気がする。よく分からないけど、きっとずっと楽しい気持ちとともに思い出せるように覚えとくんだ。

 

  ネタバレになるしキャストも違うので、特に内容には触れません。さらば青春の光が好きな私は、エンドロールのスタッフにチーム森東の面々の名前があって嬉しかったし、森田さんはやっぱコントの天才だと思う。この現場は声優さんが好きな人が多いから、どんな感じになるんだろうと緊張してたけど、笑い声が耐えなかった。変な人が変なままブレずに通す笑いが好き。

 

  コントも沢山あるし、アドリブも面白かった。出番がない間、後ろの席で笑いを堪えている演者さんの姿を見て、やっぱ笑っちゃうよね私も笑ったよって共感したりして。本当に面白かった。詳しく書きたい!でも、これはネタバレなしで見た方が絶対面白い。まだ再演もあるので。大阪公演に行かれる方は楽しんでください。(そしてさらば青春の光YouTubeに彼らのコントもあるので是非)

 

  推しの話を。舞台が始まって本当に首を曲げることなく目の前にいる推しを肉眼で捉えた時、一生分の推しを摂取するのではないかと不安になった。致死量である。ずっと小さな画質の悪いタブレットで見ていた人が目の前にいた。喋った。ずっと聞いてきた声が震える喉から届くから、一緒の次元にいるどころか、同じ劇場内にいることを突きつけられる。

 

  当たり前なんだけど、生きてるんだよな。アイドルは生きてるって知ってたけど、声優さんだって同じ時代の人間なんだよね。当たり前なのは分かっているのだけれど、声ばかり聞いていたから、ひょっとしたら違う時代とか創作とかなんじゃないかと、浮世離れした感覚で見ていたからかそこに驚いていた。同じもの食べてるし、松屋だって行くもんな。期間限定を同じ時期に食べてるかもしれないし。

 

   好きな声の人が、好きな演技をしている。好きな見た目をしていて、好きな顔で笑っている。あれ、私は神様になってオーダーメイドで人間を作っただろうか。いや、この推しのことを好ましく感じた後に、好きな男性の条件に色々と追加したのだろうか。後者なのだと思う。己の情緒が成長する前から、ずっと目で追いかけていたのだと思う。

 

  好きだった時間が強さになる訳でもないのだけれど、なんか感慨深くなってしまった。ずっと笑ってるし、楽しかったし。ああ、好きな人間のパーツや声やイメージをそれぞれ具現化して合体させると、こんな形になるんだなあ。それが同じ時代に目の前に存在しているということ。奇跡だな。

 

  朗読劇の後、チケットを用意してくれた友人と合流して喫茶店でオタクの話を沢山した。もっぱら今やってるハイキューの映画の話に終始していたけど、すごく楽しかった。オタクと話すだけでドーパミンがドバドバ出るし、いつもは使わない脳の引き出しをガンガン開けて、話題が止まらない。

 

   同じコンテンツが好きという信頼感が、初めて2人きりで会った緊張や不安を吹き飛ばす。5年ぐらい友人をしていたか?というぐらいのスピードで心が開いていくのは、土地は違えど学生の頃に同じものを通った故の経験値が被っているからかもしれない。この会話も出会いも、この舞台がなかったらないわけで。今度特典が復活したら映画に行く約束をした。

 

  この後、夜にほかの友人の推しを見に渋谷のタワレコのフリーライブに行ったり、私の興奮を受け止めて貰うために瓶ビールを傾けながらもんじゃを食べたりした。その間も余韻が消えない。

 

  次の日もなんか肌ツヤがいい。ちょっとのことで動揺しない。思い出すと口角が自然と上がる。いつもやらないストレッチもした。いつもなんとなく気落ちする、月曜日の朝ですらそんなに辛くない。

 

  多幸感を充電したような感覚に陥る。人生クソだなとか、お金ないなとか、労働ってなんなんだよって苛立ちながら、納税だけはちゃんとして必死に生きている。そんな荒んだ心が鈍くなるように、推しと会ったあとは前向きになれる。いつも放置する仕事も早めにやってしまう。副産物が大きすぎる。余韻だけで生きてけそうになる。

 

  ありがたいなあ。昔から推してる人が、今も第一線で活躍しているありがたさ。本当にありがたい。感謝しかない。いつでも学生時代の記憶を思い出せるし、また新しい思い出も増えていく。こんな風に救われたり、友達ができている人間もいます。ずっと健康でいて欲しいし、ずっと健やかに暮らしていて欲しい。

 

  本当に行ってよかった。チケットを手配してくれた友人よありがとう。そして、今度は5月に違う朗読劇のチケットを手に入れまして、これもすごく楽しみになっている。今度の朗読劇は、中村悠一さんと杉田智和さんと安元洋貴さんが出演します。友人に「お前の人生の答え合わせ」(全員私が長らく好きな人達なので)と呼ばれているキャスティング。

 

致死量の推しを浴びて、5月には3人分の致死量の推しを浴びてくる。人生辛いことばっかじゃないな。5月まであと2ヶ月。絶対健康に生き抜かねばならない。絶対病気するなよ、事故にも巻き込まれるなよ、精神も健やかであれよ。

 

ずっと安元さんを好きでよかったし、これからも好きなんだと思う。春の良き日にこんなに素敵な気持ちになれるなんて、推しに会うって最高ですね。