夏さ、また。

日々のことを、だらだら書いてるだけです。

友よ

なぁ友よ 人生って最高だろ だからやめられないんだろう

 

そんな歌詞の歌を好きなアイドルグループが歌ってくれたが、私の2019年は最高とは程遠いものだった。学生から新社会人になった1年間は、壮絶すぎて記憶にあんまり残っていない。忘年会しようと再会したのに、記憶が無くて楽しい日々が無くて、鬱屈とした話題しか提供できなくてごめんなさい。

 

なぁ友よ。でも僕は君にこっそりと独白するよ。2019年何があったのか。クソみたいにどうにもならない世の中で、君たちにすら弱音がはけなくて、必死だった一年間の話を聞いてほしい。人生で最も悪い1年だったけど、友のおかげでどうにか立っている。

 

 

 

 

 

 1月から3月は楽しかったな。地獄の卒業論文で正月を返上して書き上げた。提出日が私の誕生日の前日で、みんなで恨んだな。辛すぎて研究室のホワイトボートにテニミュ立海の「デット・エンド」の歌詞を書いて絶望してた。提出日は2徹でさ、7人ぐらいあつめて飲み会しようって予約したのに、あまりの疲労で集合時間に起きたのは笑えなかったね。2月の口頭試問は思い出したくないかな。

 

 3月は卒業旅行に最後の飲み。私だけが北陸からいなくなるから、毎日別れの飲み会だった。バイトの仲間と10年ぶりにディズニーランドとシーへ行って、ドナルドに惚れて帰ってきた。台湾旅行は楽しかったけど、みんな協力してくれなくてキレて不正出血を起こしたな。あとは四国一周旅行して、友人の仮面ライダーエグゼイドのプレゼンを30分聞いた。楽しかった。ここが人生のサビだと言われたら、私は頷ける。金も気にせず毎日飲んで、お前が居なくなると寂しいと言われる日々は、自己肯定感も高まって幸せだった。理想の生活だった。

 

 4月。定時に帰ったのは1回だけ。あとは全部残業だった。仕事が嫌すぎて、衝撃的なことが多すぎて、ここは日本か?と首を傾げた気がする。 ここから急に記憶がおぼろげになって、何も覚えていたのだ。辛いことだけは覚えている。両隣の部署に新人が居なくて、私だけがフロアで唯一の新人で、私だけがミスし続けていた。好きでもない仕事で、なんとなくなった公務員に割ける熱量なんて持ってないから、このまま何も成し遂げずに死ぬのかという不安がジクジクと体に溜まっていった。

 

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 5月の地獄はこれに詳しい。就職して大学の友人たちに連絡したら、みんな楽しそうで白目をむいた。人生が楽しそうという言葉は私の代名詞だったのに、誰よりも就活を頑張ったはずなのに、誰よりもしょうもない給与で、しょうもない田舎で、しょうもない仕事をして健康を害している自分が情けなくなった。

 

 楽しい話をするならば、サカナクションのライブに行った。後ろの立見席だったけど、レーザーライトがビュンビュン光った。あとはGWに名古屋へ行った。理由は友人たちが本社研修などで名古屋に集合してたからだ。明治村に行って男装したら、あまりの似合いっぷりに友人たちから絶賛された。有名な山ちゃんで手羽先をたくさん食べた。確か夜行バスで向かったので、12時間の旅に身体がバキバキになった思い出。

 

 6月は覚えていない。職場に対する不信感が募っていたんだと思う。どの部署にもやばい人がいるんだって薄々気づき始めて、自分の将来に絶望していた。仕事だと割り切って働けたらどんなにいいのかとため息をつきながら、毎日8時以降に買える生活で5キロ太った。酒しか救いが無かった。

 

 私生活では就活のブログを書いて反響の大きさにびっくりしていた。この時ブログを書かなかったら、自己肯定感の欠如で死んでたと思う。

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大学の友達とNACSの舞台の再演であるLOOSERを見に行って、大江戸博物館と日本近代文学館へ行った。そして地元に友人が遊びに来たので、松島に行った。何とか外に出て、メンタルの平穏を保っていた。家にこもっていたら死んでしまう。

 

 7月は関ジャニ∞のライブがあって、名古屋に行った。大学の友人たち6人で名古屋に乗り込んだのはいい思い出である。神席で丸山さんが格好良かった。これだけが救いであった。他の記憶はやはりない。仕事が辛すぎて帰り道やトイレで突如泣くようになってしまった。弁当も満足に食べれなくなってしまった。身体が、生きることを放棄するようになった。他者から見られる元気な私のイメージと、私の繊細な心と不健康な身体はどんどん病んでいった。

 

 8月は仕事が忙しくて、相変わらず飯を食べることを放棄する代わりに酒を飲むようになった。アルコールしか味方がいなかったのだ。写真フォルダを見る限り、友人が遊びに来てくれたので鳴子温泉に泊まり、翌日東京でトニセンの舞台を鑑賞した。好きな店員さんと再会したのもこの頃である。他には、高校の同級生と郡山に集合して、諸橋美術館のダリと、五色沼を見るために磐梯山をドライブした。車内でハイテンションで嵐の楽曲を歌ったのが懐かしい。

 

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 9月。8月から検査入院していた父の病名が判明した。膵臓がん。一般的に治らないと言われる病気だった。奇跡的に転移は無いけど、大きい腫瘍が見つかった。父は会社を休んだ。放射線治療を始める前に、味覚が変化する前に家族で初めてホテルに泊まってアワビを食べた。人生は有限だと、気づかされた。友とアスレチックに遊びに行って、コメダでメロンソーダーを飲んで少しだけ季節外れの花火をした。

 

 10月。相変わらず飯が食べれなくて、とうとう絶食した。少し怒られるだけで涙が目に滲むようになった。死んだ方がいいかもしれない、奨学金も払わなくていいしという妄想が脳内をノンストップ生中継。小学生が歩く道に、突っ込めば死ねるとぼんやり思う。意味もなく泣きたくなる。おなかは減らない。しんどくなって、泣きながら親に電話して、精神科を予約した。病院の先生に「頑張ったね」と言われて、また涙が止まらなくなった。抑うつ状態だった。

 

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 楽しい話だと、友人と福岡と長崎に旅行に行った。屋台のおじさんたちのおすすめに従って、オカマショーのあんみつ姫で遊んだり、美味しいとんこつラーメンを食べたり、五島列島にわたる船が出ないからって急遽雲仙温泉に足を延ばした。行き当たりばったりの旅は、学生の頃のワクワク感を取り戻すようで嬉しかった。友人とドライブにも行った。

 

 11月は仕事が忙しかった。仕事が嫌で現実逃避をしたくて、毎日転職サイトを眺めては応募した。募集をしている出版社に手書きの履歴書を送りつけたり、毎日5社エントリーしたり。とにかく現実を受け入れたくなくて、楽しい人生のために東京への憧れを募らせていた。命を、削っていた。しかしどれも空回りに終わってしまった。東京で働く覚悟も、好きだったものへの熱意も無くした私に、全てを捨てて1人で飛び込む勇気はなかった。唯一面接を受けた出版社の面接中に、そのことに気づいてしまって恥ずかしくなった。東京に夢を見て、東京をあきらめた。

 

 面接前に上野の美術館を巡って友人と酒を飲んだ。歌舞伎町をキャリーバック片手にぐるぐる歩いて、女同士でラブホに泊まった。一人だったら挫折感でふらふらと倒れそうだったが、隣には友人がいた。

 

 一週間に2人親戚が亡くなり、忌引きをとったら職場の人に嫌味を言われた。どうでもよくなって、仕事を辞めたくなった。トイレでまた泣いた。

 

 12月は無だった。東京をあきらめた私はやる気もなくて、日々を淡々と消化していた。病院の先生からは躁鬱も疑ったが、君はADHDだと言われた。ADHDによる挫折からの抑うつ状態。診断が出た時、今までの人生は何だったのだろうと思った。何をしても目立ってしまうから、後ろ指をさされることが多かった。普通の人が簡単にできることができなかった。変な人だと言われ続けた我が人生。特殊だから、褒められるから、人と違うことをしたかった我が人生。それら全ての原因は病気だった。許された救いと、どうしようもなく凡人で患者な自分。受け入れたくなくて、布団に沈んだ。

 

 女王蜂のライブへ行った。友人と男性用チャイナ服を買って、髪をカラーワックスで青くして、人生初のつけまつげをつけた。ライブが始まる前の客入れの段階で耳に届いた槇原敬之の「どんなときも」の歌詞に刺され、ライブのメッセージ性に殺されながら楽しんだ。外に出るとイルミネーションが綺麗で、磯丸水産で一杯飲んだ。何かを楽しんでいるときも仕事のことが頭から離れなくて楽しめない自分を呪った。

 

 忘年会シーズンだった。新人は余興が強制なので、嫌すぎてだんまりを決め込んだ。でもやる流れになったので、マツケンサンバを1分踊った。来年は絶対忘年会に行かないことを決めた。面接官だった今年定年の人から「面接では皆同じ事しか言わない。でも君は違うことを話した。怒られることもあるかもしれないが、変わらないで進んでほしい」と言われた。少しだけ嬉しかったが、頑張る気は毛頭ないので申し訳なかった。期待に応えられるほどの、器じゃない。

 

 転職も一度諦めたし、病気を治療しないといけない。でも今の現実は嫌なので、人生が変わるといいなという思いでマッチングアプリを入れた。年明けに1人の男性と飲みに行くことになっているが、いったいどうなるんだろうか。

 

 友人と沢山酒を飲んだ。2日連続でカラオケにいって、年末年始料金にびっくりした。今年の自分は頑張ったから、ポールスミスの財布を買った。手触りがよくて、品のいい財布。接客してくれた店員さんが格好いいと、友人とはしゃいだ。どこも開いてないからって、びっくりドンキーでおやつの時間にハンバーグを食べてたね。

 

 

 

 

 

 こんな2019年でした。スマホの画像フォルダを遡りながら、こんなことあったんだ―と思い出して書きました。毎月友人と遊んでたことにびっくりした。友達はたくさんいないし、みんな私より大切な友人や恋人がいるというのに。こんなにも遊んでもらった。辛い生活の中で、情緒不安定な私と遊んでくれたのだ。

 

 私は1人で生きていけないんだと思う。友人がいないと、寂しくて死んでしまう。私にとっての幸せは、友人と酒を飲むこと。しょうもないし、他社に依存した幸せだ。彼女たちが子供を産んだら、ライフステージで転換期が訪れたら壊れてしまう幸せだ。自分勝手で生産性のない生きがいだ。でも、どうしようもないんだ。私は、私の友人たちの幸せを願っている。そして遊ぶことが一番楽しい。

 

 飲んでる間会話は止まってしまうし、心から笑うことも楽しむことも減ってしまった。住む場所もばらばらになった。給与も、社会的地位も、顔の知らない彼氏の存在の有無も、何もかも違う。守るべきものも違うし、他にコミュニティを持っているだろう。つまらない人間になってしまった自覚もある。私より優先されるべきことも多いだろう。でも、会いたくなる。君たちがちょくちょく遊んでくれたから、私は今日も生きている。息をすることができる。

 

 

 

 友よ。人生はクソだな。学生時代は楽しかったな。でも、また遊べるんだったら、それは最高の一日にしようじゃないか。君たちとまた遊べるんだったら、私は人生をやめられそうにないよ。