先週、父が亡くなった。青森の山間の村生まれの67歳で、死因は膵臓癌だった。
本当はここに父との思い出や、どんな人生を歩んだ人かを書き連ねたい。どんな風に闘病して、何が好きだったかを記録したい。人は死後硬直によって肉体が固まるが、同じように思い出も固定されてしまう。死んだ後、お父さんとの思い出は増えずに、忘れていき厳選され固定される。
母親が周りの人に、父が病気だったことを伝えていなかった。そのため、一般焼香にやってきた人達全員に死因を説明することになった。
最初は「数年前から闘病しており、北関東の大学病院でセカンドオピニオンを受け、陽子線治療を受けて余命も伸びた。直前まで元気だったが最後は食欲が落ちて、みんなの腕の中で在宅介護されたが、急に息が苦しくなって亡くなった…云々」などと、最後の数年間を細やかに丁寧に言葉を紡いでいた。
しかし、最後は「数年前から闘病していたが、本人は死ぬ直前で元気だったので急だった」という、簡潔な文章に落ち着いた。これが、家族や周囲の中の人間の記憶において、正式な歴史となるのだろう。
死ぬ直前の一週間前から、兄が仕事を休んだ。訪問してきた医者が「もって数日の命」と言ったからだ。もう何も食べれず、骨と皮になっていた父。おしりの肉が欠落していて、介護ベッドで寝ていた父。でもアイスは食べた。Amazonプライムを覚えて映画を見てた。毎日巨人戦は欠かさずチェックしていた。それに兄は寄り添っていた。兄と仲の悪い私は、部屋から逃げた。
死ぬ直前はかなりわがままだった。すぐ文句を言うし、煩いと言う。お母さんは笑っていたが、私は急な変化に戸惑っていた。今まで、金は出すけど口は出さない。人の話は聞かないし、自分から何も話さない寡黙な父は、わがままな患者になっていた。あとから聞いたが、病気になって仕事を休んだ父は、ずっとお母さんとテレビを見ながらあれこれ話しており、お喋り好きだったらしい。わがままも、可愛い範囲だと言う。
犬が好きだった。お母さんに禁止されているのに、出かけると子供たちにお菓子やジュースを買ってくれる人だった。死後分かったが、私たち双子の兄妹が産まれるまで、父は青森の実家に住む長男の家の子供たちにケーキやらおもちゃやらを沢山買い与えていたらしい。職場の話は聞いたことがなかったが、焼香に来た職場の人達曰く、神様のように優しく怒らない人だったらしい。
寡黙なのかお喋りなのか分からないが、優しい人だった。寂しがり屋なのか、人をこっそりと喜ばせるのが好きだったのか。慕われたかったのだろう。少なくとも、悪口を言われるような人じゃなくて誇らしかった。静かだが、不機嫌とは無縁だった。
死ぬ直前に、俺はいかにモテたかということを一時間かけて私に話し続けた。最後に私に語るのはそれなのかと今になっては思う。昔乗ってた赤いトヨタの車に女を乗せた、一番の美人は一ノ関にいたと豪語した。酒の失敗についても色々と話し、裸足で路線バスに乗ってはいけないという教訓を得た。残念ながら、私は葬儀の翌日に酒を飲みすぎて、彼氏の家の風呂場で吐いた。酒癖の悪さだけ遺伝した。と言っても、家で酒を飲んで暴言を吐いたり暴れたりしない、のんびり寝るだけの人だった。
青森の田舎の村出身。10人兄妹の8番目だった父。工業高校を出て就職して、公共事業等に従事しながら、結婚して家を建てた。リストラ後に再就職して、死ぬ直前まで仕事をしてた。いつも作業着を来ており、小学生だった私が仕事内容を聞くと、「ダイナマイトを爆発させてる」と答え、ダイナマイト爆発おじさんとして私の自慢になってた。本当は土木の人で、青函トンネルも作った。東北のどこへ行っても、この住宅地は俺が作った。あの通りの木を切った。階段を作った。整備したと自慢せずにボソリと話していた。自治体から表彰もされた。
近所の子供が遠くの高校に通うことになった際、たまたま現場が近かったからと数年間送っていたらしい。その人はわざわざ県外から焼香をあげに戻ってきてくれて、「優しかったです」と言っていた。友達はいないと思ったが、仕事関係の人が沢山来た。県外からも駆けつけてくれた。
最寄り駅まで何キロもあるから、休みの度に乗せてくれと駄々こねる私に対して、嫌な顔せず友達まで乗せて往復してくれた。パチンコは辞めれたが、最後までタバコをやめられず、家の外に紙巻を吸いに行って転んで蹲っていた。翌日から介護ベッドでお母さんの許可を得て電子タバコを吸い、「死ぬまで辞めれないから禁煙しろ」と私に語った。臭いからして昔から禁煙していないのは家族の誰もが察していたが、家の敷地では律儀に吸わず、タバコもライターも鞄に隠してる誠実さはあった。
巨人の松井が好きだった。江川も好きだった。私の好きな丸佳浩が移籍したら、ことある事に今日の丸の打撃成績を教えてきた。休日の朝はメジャーの試合ばかり見てて、今まではヤンキースの試合ばかりだったのに、最近は大谷のおかげでエンジェルスをよく見かけた。
ドラマが好きで、朝ドラ大河月9の他に、韓国歴史ドラマもずっと見ていた。チャングムの誓いを6回ぐらい見たらしい。飛行機が苦手で、唯一の海外は新婚旅行の中国だったが、北京にいた時に天安門事件が起きて散々だった。泳げなくて、流れるプールで浮き輪に掴まって永遠に流され続けていた。
ゴルフが得意らしく、昔は朝に打ちっぱなしに行くついでにセブンティーンアイスを買ってくれた。ホールインワンをしたこともあるらしい。頭がずっと薄くて、冬はニット帽を被ったまま寝てた。どんぶくやパジャマのヒモやボタンを、よく犬に食べられていたし、自分のご飯を犬にちょこっと食べさせちゃうから舐められてた。
背中が痛いと沢山の検査を経て膵臓癌と診断されて、ちょっとやけくそに「知ってるか。白い巨塔の死因は昔は胃癌だったのに、今は膵臓癌なんだ」と弱々しく語った。陽子線治療のおかげで元気になってからは、犬の散歩にルンルンで出かけた。もうちょっと長生きすると思っていた。回復したと思っていた。
私と兄の仲が悪いため、高校卒業後に私が家からいなくなってから、家族4人が揃うのは正月の朝の10分間ぐらいだった。だけど、父が痰が出て息苦しいって言うから、家族みんなで体を起こしてあげて、背中をさすったらそのまま亡くなったね。腕の中でゆっくりと、ふらぁって目の焦点を失って。みんなに囲まれて、安心させてしまったのかな。
死んだ直後に訪問看護の方が色々と処理をしてくれた。顔にワセリンを塗ってあげたのだが、両の手で包んだ父の頭は小さかった。30キロも痩せたから、顔の凹凸が顕著だった。まだ温かだったが、次の日こっそり触ったらドライアイスのせいもあって冷たかった。柔らかかった関節は、棒のように固まっていた。
その時は泣かなかったけど、お経でダメだった。昨日まで憎まれ口叩いてた人が、横になってお花に囲まれてる。目の前に知らない坊さんがいる。この画は、死んだ人のためのものだった。マスクの中がぐちゃぐちゃになって、嗚咽したかったけど我慢した。
近所の人たちから、親戚から、お母さんをよろしくねと言われる。母だって64歳で夫に死なれるのは予想外だっただろう。あまり心が強くない人だ。兄は葬儀後にパチンコに行くような人だし。私がしっかりしないといけない。周りには、震災で親を亡くした人だっている。25歳で父との離別は早くないはず。いや、早いわ。早いって言わせてよ。
ずっと私は死にたくて、何かあっても死んじゃえばいいやって思って生きてた。車に煉炭だって積んだまま。でもちょっと前に決断して、今年退職してお父さんの介護をしようと思ってたら、亡くなっちゃった。びっくり。もう、私は死ねないね。お母さんは1人に出来ないね。
定年してお母さんと旅行してのんびり暮らす予定だったと、悔しそうに言ってたね。でもさ、膵臓癌で3年も生きたよ。ずっと医者から奇跡だって言われたよ。抗がん剤治療以外で一度も入院しなかったし。コロナだって家族の誰よりも症状軽かったし。
遺影を探すも、全部逆光か犬と一緒の斜めの写真。何とか見つけたのは、前の犬と写ってた写真。今頃、極楽を前の犬とうろうろしながら歩いているのでしょうか。抗がん剤治療の味覚異常と腹水で全くご飯を食べれなくなってたから、繊細なお寿司とか食べてるのかな。アイスしか食べれなかったもんね。
初七日まではお膳を出すのが曹洞宗なので、こりゃいい機会だと父が苦手で食卓に並ばなかった野菜ばかり並べてやった。れんこん、人参、かぼちゃ。でもちゃんと、林檎は添えた。青森のじゃないけど。
葬式でお坊さんが父の出身地をずっと津軽と言っていて、母と「位置的に南部だよね」って笑えた。火葬場に行くため棺を車に乗せたが、納棺師が勝手に棺のサイズを大きくさせていたせいで、急遽違う霊柩車に乗せ直しておりコントみたいだった。
珍しい苗字だったので、香典を整理してる時に、こんなに自分の苗字を見かけることはこの先ないなあって思った。死んだせいか肉が落ちて鼻が高くなっており、みんなにイケメンとちやほやされていた。本当に安らかな寝顔だった。
今、文字に書き連ねて、改めて死んだことを実感する。死んだね、お父さん。なんかまだ生きてる感じがあるよ。私は来年から無職なんだけどどうしよ。私の扶養にお母さん入るらしいよ。家のことなんもせずに外出する癖に、親戚には俺が長男だからって態度をとる兄をぶん殴りたいんだけどどうしよ。お母さんがそれ見て悲しんでるよ。
今の犬がね。お父さんの祭壇を見る度に吠えるよ。四十九日あけてないからね。まだいるのかな。私が寝坊して線香をあげてないのがバレたかな。
毎年青森の実家に連れてってくれてありがとう。大学まで通わせてくれてありがとう。ずっと私の退職を気をしてたね。でも、あなたも若い頃警視庁受けようとして、仕事で試験が受けれなかったって言ってたし許してね。私が車の運転に慣れてなくて逆走しかけたこと以外、一度も怒らなかったね。大学で歴史をやるのも、教員免許とらなかったのも反対もしなかったね。
家族の中で、お父さんと血液型が一緒だったのが誇らしかった。のんびりして動じなくて優しくて。そんな血が少しでも濃いのが嬉しかった。
私も今、取り留めとなくここに思い出を羅列したが、ここに書いたこと以外はぼんやり忘れていくだろう。いい事ばかり書いたけど、嘘偽りなく優しい人だったんだよ。
家の近所の病院の駐車場でおやつをねだって動かなくなった先代の犬に、おやつを与えながらのんびり散歩していたお父さん。近所の人たちのトレードマークだったね。今もその駐車場を目にすると、なんだか酷く寂しいよ。
お母さんが庭に柿がなったと言う。今年初めて実がなったらしい。お父さんと、今年はなりそうなのにねって話してたのにと呟いてた。
お母さんが録画していた日曜劇場の最終回を見る。お父さん、死ぬ前にリアルタイムで見てたよって言ったら、よかったけど大河は最後まで見れなくて残念だねと返された。好きだからBSで早い時間から見てたもんね。
お父さん。仙台育英の優勝は見れたね。今年のドラフトはどうだろう。巨人は調子が悪くて残念だね。村上は記録を更新しそうだよ。楽天はクライマックスシリーズ行けるかな。糸井と能見、そして内海が引退するよ。
寂しさに慣れる日が来るかな。お父さんを通じて話してた話題に、ぽっかりと穴が空く。なんだか出かける気にもなれなくて、ずっと遺影の前で寝っ転がってるよ。でもやっぱ、嫌な思い出ひとつないから、お父さんは偉大だね。ありがとう。
まだ痩せてない頃のお父さんと、もう亡くなってしまった先代の犬。ようやく再会できたんだと思うと、よかったと思えてしまう。残された私は寂しいよ。