夏さ、また。

日々のことを、だらだら書いてるだけです。

幸せだから死にたい

 

先日久しぶりに大学時代の友人と再会した。その人は「幸せだから死にたいんだよね」と言った。私は何故か憤りを感じ、何かしら相手を不快にさせないような言葉を己の中から捻り出して、「贅沢な悩みだね」と呟いた。

 

 

 

 

「幸せだから死にたい」と言う友人の論はこうだった。恋人はいないが地元の友人に恵まれている、仕事は仕事と割り切っているので苦ではない、趣味も充実している。学費等の借金が心配だったから死ななかったが、死ぬとチャラになることがわかった。なので幸せなうちに死にたい、と電車の中で言われた。

 

 幸せだから死にたい感覚は、何となくわかる。私は中学生の時、ただの専業主婦だった母親が、実は20代の時に冷戦時代のヨーロッパを1人でバックパッカーをしていた話を聞いてから、海外を放浪するのが夢だった。夢だから貯金もしたし、勉強をした。そして大学2年生の時に50日間ヨーロッパを巡る旅に出ることが出来た。

 

 高校生の私にとっての夢は、大学で志した勉学を学ぶこと。そして、ヨーロッパ諸国を巡ることだった。そしてこれは、大学2年生で叶うことになる。人生の夢が、早い段階で実現してしまったのだ。

 

帰国した私が最初に考えたことは、「いつでも死んでもいいな」ということだった。もう、これ以上幸せなことは無いし、今後の人生は苦しみしかないだろう。予感したとおり、燃え尽きた私は就活も失敗し、社会人生活は苦悩がまみれ、うつ病になったりした。黄金期はその頃だったと、今も胸を張って言える。

 

 ならば共感できるはずだ。「幸せだから死にたい」という、友人の気持ちに寄り添えるはずだ。ヨーロッパ放浪後、社会人になった私は日々が苦しくて、早く解放されたかった。数少ない友人と遊んだり、推しのライブに行った時、あまりの楽しさに「今日死にたい」「これからの平穏な5分間を永遠に繰り返して欲しい」と口癖のように言っていた。生きることは苦しいから。逃げたいから。この瞬間だけは平和だから。

 

 でも憤った。久しぶりに人と話してて、不愉快な気持ちになった。なんでなんだろうかと思うと、その時私が辛くて死にたかったからだと思う。友人は前者の私のように、幸福の最上級の形容詞として「死にたい」と言ったのだろう。ある意味諦観かもしれない。でも私は、苦しくて死にたかったから、怒りが心に沸き立ったのだと。

 

 社会人1年目でうつ病になった。ADHDですよと医者に言われ、今まで「ふつうでありたい」と願っていた指針は、努力でどうにも出来ないと分かった。社会人3年目で部署異動をした。早期の部署異動は戦略外通告と同義なので、職場が上司が、私を嫌っていることを知った。仕事が出来ないので当たり前なのだが。

 

 数ヶ月前にコロナになった。家族全員倒れた。ホテル療養中、生きてるだけで全方面に迷惑をかけている己が許せなくて、奨学金より軽い私の命を自覚して、毎日首を吊ることを考え、室内で場所を探し、泣きながら遺書を書いた。それは今も私のノートパソコンに残っている。

 

 7月。中学時代に虐められて不登校になって以来、7月は毎年心が疲弊する。残業代が出ない中、22時帰りが当たり前だった。泣きながら運転した。出自を恨んだ。己を恨んだ。消えたくなった。

 

そんな時に、数年ぶりにあった人に「幸せだから死にたい」と言われたら、腸が煮えくり返るような気持ちになるでしょう。ここまでの経緯を、私はその人に話したことは断片的に一部しかなかったし、人の事情など知らないだろうが。私だってその人の数年間は知らない。けど腹が立った事実だけは残った。

 

 不幸な人を察さなくていいけど、幸せだからという無邪気な近況報告は暴力だと思う。自分と同じくらい幸せだと客観視できる人と、その話題はしてくれ。やめてくれ。自分は幸せだと自慢されて、不幸だと感じている私はどうすればいい。電車の2人席。窓際に座った私はどこにも逃げれないし、誰も会話を変えてくれない。

 

 「贅沢な悩みだね」というのは、その時発した苦肉の言葉だった。絶対に相手に「そうだね!!幸せなの羨ましい!!いいなー!!悟りだね!!!」なんて言ってやりたくなかった。うるせぇ黙れその話題から何を発展されたいんだよ。それは楽しい話題か??それ言われて私はあなたを羨ましーって言って心を満たせてあければいいのだろうか。贅沢である。

 

 その前に「職場で辞めた人がいる。補充された先輩も口下手で、会議で発言しないし上司はきつく当たる。けど上司は性格を知ってるが根がいいひとだからなー」みたいな話を聞かされ、パワハラ上司の元で2年間過ごした私は、社会人になると人は傷つけられたくないのかいじめっ子の味方をするようになるんだなって印象を受けてたので、その後の「幸せだから死にたい」話で、もう匙を投げたくなったのかもしれない。いじめられるに理由なんてないだろって思ってたからかもしれない。

 

 それか、受け取り手である私が、相手が話したい本論ではなく、印象深いところだけを切り取って解釈したのかもしれない。本当はもっと違う話で、いい話だったかも。真相はよく分からない。

 

 学生時代は共通の趣味もあったから、その人がどんな人なのかということにフォーカスを当てることは無かった。学生というのはみんな同じ立場で、同じ生活環境だったので、そんな差異に気づけなかった。

 

 人は、社会人になると変わるんだと学んだ。別にこの前会った人が悪い訳ではなく、学生だし趣味が同じだと思っていても、価値観は違うのでその趣味以外の話題はあまりしない方がいいんだと思う。

 

 こんなことを書いているが、私だって何も考えずに何か話して、誰かを怒らせているかもしれない。彼氏の話するなとか、不幸自慢キツいとか、お前といても楽しくないとか言われてるかもしれない。十中八九言われてる。

 

 あまり私生活の自慢をしないように、これからは気をつけていきたい。特に、学生時代趣味で知り合った友人たちは、我々の個性ではなく、趣味の方に重きを置いてつるんだんだから、趣味の話に終始してるのが正解なのだと思う。

 

 特に「死にたい」なんて言葉は、本当に死にたい人に失礼なんだと思う。Twitterとか、ブログとか文字ならいいけど、面と向かって人に言うには、不安にさせるか怒らせるか、悲しい気持ちになるか。とにかく、楽しい話題じゃないのは確かである。

 

 学生時代はキラキラしている。思い出が美化されている。それをまた味わいたくて、旧友に会う。でも、久しぶりに会うと、別にそんなに綺麗じゃないし、葛藤だって沢山あったこと思い出す。でも沢山の知り合いたちと日めくりカレンダーのようにランダムに会っていると、一人一人の印象は希釈されるし、嫌なことは思い出したくないからかなかったことになる。

 

 そして私も、気がつかないうちに何気ない話題で、誰かを傷つけ怒らせている。学生時代は殆どと時間を共有していたのに、今は数年に8時間だけ会うのだから。価値観が合わないのは当たり前。誰も悪くない。みんないい人だ。ただ、それがどうしようもなく寂しく、1人、また1人と思い出が薄くなっていくのだ。

 

 幸せに優越などなくて、幸せと本人が言うのなら賞賛されるべきだろうし祝われるべきだろう。不幸だと言うのならば、寄り添って優しい言葉をかけるべきだろう。そこに怒りや許す許さないなんて意思はいらない。なのに、なのにそいつらが顔を覗かせて、心に暗い影を落とす。受け取り手の私の心と余裕の無さが、悪意なき発言に傷つき、憤り、距離を置こうとしてくる。

 

歳をとると、心が狭くなる。許せないことが多くなる。全員ぶん殴りたいし、この世の人達全ての不幸を願いたくなる。私のところまで落ちてこいよと叫びたくなる。そして、そんなことばかり考える自分の醜さに悲しくなる。恥さらしだから死にたい。あなたの口にした言葉以外に何も察せない私は死にたい。親切なあなたのたった一言が許せない私を殺したい。あなたより切実に。